「社畜」なのに社畜じゃない。激務のゲーム制作会社で見つけた自由とは? |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

「社畜」なのに社畜じゃない。激務のゲーム制作会社で見つけた自由とは?

アニメ「NEW GAME!」に考えさせられる仕事の定義

「自由」があれば社畜とは呼べない 

 そもそも、働くということには様々な意味合いがある。思想家のハンナ・アーレント(1906~1975)は、著書『人間の条件』(1958)において人間の「活動的生活(vita activa)」を「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」の三つに分けた。「労働」とは人間の生物としての生命を維持させるものであり、「仕事」とは世界の中に自らの手で人工的な物を生み出すものであり、「活動」とは地球上に住む人間は一人きりではなく多数であるという人間の条件に対応したものである。

 つまり大雑把に言えば、人間が働くということには、「生きるために稼ぐ=労働」という側面、「何かを作り出して死んだ後にも自分の製作物を世界に残す=仕事」という側面、「たくさんいる他の人間とは違う自分だけの価値を発揮する=活動」という側面があるということである。

 古代ギリシャでは「労働」を奴隷や女性たちに任せ、「労働」から解放された「市民」たちは芸術活動や議論などの「仕事」や「活動」にいそしむための「自由」を得た。一方、近代では「労働」こそが重要なものとされ、人間が「仕事」や「活動」にいそしむための「自由」は失われたのである。

 「労働」とは自分個人の生命や生活に関わる私的領域におけるものである一方で、「活動」とは多数の人と関わる公的領域におけるものである。つまり、現代の人間は公的領域における「自由」をも失っているのだ。

 そうは言っても、現代の人間が何の「労働」もせずに生きていくことはできない。アーレントの主張を前提とした上で、私としては、人間が働く際に、「労働」「仕事」「活動」のどれかに重きを置くというよりも、どのような仕事であっても常にこの三つの要素が不可分なものとして含まれていると意識することが大切なのではないかと考えている。

 青葉は、給料をもらうために「労働」し、ゲームという製作物を作り出すために「仕事」し、公的に自分の創作の価値や卓越性を認めてもらうために「活動」していると言えるだろう。労働に対する対価としてお金をもらい、自分が作り出した製作物を実際に手にして、他者から評価してもらえれば、働き甲斐と精神的な「自由」を十分に感じられるはずだ。

 青葉が携わっているようなゲーム制作という仕事はクリエイティブな仕事でもあるので、他の仕事に比べれば「仕事」や「活動」という側面が見えやすいのかもしれない。だが、他のどんな仕事でも、本人が働き甲斐や精神的な「自由」を感じられるのであれば、生きるために稼ぐ「労働」以外にも、「仕事」や「活動」といった側面が見えてくるのではないだろうか。

 現代の若者の中には、就職してから積極的に「社畜化」していく人たちは少なくない。そういった者たちの中にも、学生時代までは自分の居場所やアイデンティティを見つけられずにいたものの、仕事と働く場所を与えられたことで、自分の価値を見つけられたと感じる者もいることだろう。同僚たちと一緒に何かを為し、会社の役に立っていると感じられるだけでも、働き甲斐を感じられるようになるものである。

 その反面、「ブラック企業」で強制的に働かせられるということも多い。自分の働きが正当に評価されなかったり、社内の人間関係が悪く連帯感がなければ、会社に貢献したいという気持ちも薄れていく。

 結局のところ、「社畜」というのは労働時間や会社への奉仕という外面的な面での拘束という以上に、その仕事に精神的に拘束されている状態のことを言うのだろう。どれほど長時間働いていても、本人が働き甲斐を感じ、精神的な「自由」を得ていれば、拘束された「畜」とは言えないのである。

 このように「NEW GAME!」とは、「社畜」とは何かということと働くということを考えさせてくれるアニメでもある。

オススメ記事

大賀 祐樹

おおが ゆうき

1980年生まれ。博士(学術)。専門は思想史。

著書に『リチャード・ローティ 1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』(藤原書店)、『希望の思想 プラグマティズム入門』 (筑摩選書) がある。


この著者の記事一覧